12、観の目
観の目とは、一つに優れた客観的観察眼のことである。第三者の目ともいえるだろう。
人間、自分のことは中々見え難いが、他者のことはよく見えるものである。
武道や格闘技でも、修行により、他者の長短はわりと見えてくるようになる。
会場やTV放送での他者の試合をみていると、「そこだ!いけ!!」とか「なんでそこで蹴らないんだ!違うだろ〜」などとなる場合も多い。
なまじ目が肥えてくると、トップレベルの選手の動作や突き蹴りが遅く見える場合さえ生まれてくる。
実際に自分でやってみれば目にも止まらぬ速度である訳だが、傍観者の立場故にゆとりがある事も理由だろう。
もし自分自身の事柄について、私情をはさまず第三者としての立場に立ち、客観的に公正に鑑みることが可能であれば、自己の能力、可能性は最大限になる。
よく「人の振り見て 我が振り直せ」という。「観の目」からした場合、人とは他者であるのみならず、他ならぬ自分自身も含まれるのである。
他者のみならず自己の長所と短所を的確に分析する能力が身に付けば、空手ばかりでなく如何様な人生を歩もうとも、この上ない成果を発揮できるはずである。
自己を客観的に見るとは何か?
例としては、自動車の運転にも例えられる。
車の運転を長年した人には誰でもある程度の経験があると思う。
車を運転中の自分と、それを観察している傍観者としての自分が同時に存在するのだ。
走行中の車線上で、ハンドルを握って操作している自分がいるわけだが、カーナビを見るがごとくに天上から見下ろし、見えない先々の道路の車線の優位性や交通状況を予測し、計算しているもう一人の自分がいる。
このもう一人の自分は、運転中の自分を、他の全ドライバーを合わせて全体を見渡しているのである。
大げさに言えば「神の視点」ともいえるだろう。
そういった人間はまるで予定調和のように無駄なく無理なく理想的な走行を果たしてのけることがある。
これはタクシードライバーなど長時間の運転作業を日常とし、かつ几帳面な人物にこの傾向が強いように思う。
ヒンドゥー教ではシヴァ神の額に第三の目がある。まさに「神の目」だ。
ヨガではこの第三の目を開くことを目的としているが、奥義とされるところでもある。
私はヨガは門外漢だが、その正体は松果体であるともいわれ、眉間に位置するとされるチャクラであり「天眼」と言われる。
空手でいえば戦っている自分と、それを検分している審判としての自分を同時に存在させることになる。
選手として長年戦い慣れてくれば、対手の動きが見えてくるばかりでなく、ある程度の予測もできるようになる。
審判を長年してくると、両選手の先々の動きが予測できる場合がでてくる。
ある程度までみれば決着が付く前に、試合結果の予想が付くのである。
もし観の目があればどうなるものか。
自分のだけでなく対手の動きも手に取るように分かるのだから、負ける理由がないのだ!
まるで将棋やチェスをするが如くに試合をする事となるだろう。
完成すれば、将棋をしているのか空手試合をしているのか、本人にも区別が付かなくなるかもしれない。
では空手でこの観の目を開くにはどうしたらよいか?
どのような稽古をすれば可能になるのか、そのカリキュラムが期待されるところである。
戦いには事前の準備が大切なのは言うまでもなく、準備とは日々の稽古に他ならない。
しかし、万事予想通りに行くとは限らないし、想定の範囲外の事は当たり前のように起こるものである。
決められたルールの中で起こり得る、ありとあらゆる状況に対処せねばならない。
蹴りがくる、突きがくる、柔法もあるかもしれないし、先手を取るばかりでなく後手に回るかもしれない訳である。
どんな戦法であろうとも対処可能である為には、繰り返される実施訓練がものを言う。
つまりは「百錬自得」という訳だ。
とはいえ戦いの中で最善の動きを維持するのは困難だ。
後から「どうすれば良かったのか」、「最善の策は何だったのか」と自問しても分からない場合が多い。
下手をしたら戦闘中の細部を思い出せない場合もある。
全てを熟知した観の目を持つ指導者が傍らに必要なのだ。
しかし、いつも傍に居てくれる訳ではないし、道場では稽古仲間も大勢で指導者の独占は難しい。
そこで非常に役に立つのがビデオ撮影である。
思い出して欲しい。あなたはTVを見ていて「そこだ!行け〜」と思った瞬間がないだろうか?
例え本人が未熟であったとしても、今がその時!と判断したのは状況を見取ったからであり、紛れも無い「観の目」たらんとする第一歩なのだ。
本考察のタイトルは「観の目」だが、ここで「観の目と見取り稽古」と改めたい思いで一杯である。
他者のビデオを見ていてもそうなのだから、自分の組手のビデオを見ればまさに体験本人と傍観者とを合わせて経験する事となる。
完成の域に至れば、事後にビデオを見て自己分析研究するかのように、戦いながら同時にそれが可能となるであろう。
戦っている自分とそれを見つめている自分である。
ヨガでは観の目が開く(悟りを得る)と自我と意識が独立し、自分が歩いていく姿を一歩下がって後ろからそれを見えるようになるそうである。
この見取り稽古は、身につけた技に対する確認作業に非常に役に立つ。
空手修行者は是非試してみて頂きたい。
その際に観の目のある人間に解説を付けてもらうのも効果的だ。
私もいつの日にか、自分と観の目のある人間の分析内容が同じになるその日まで、この愛して止まない斯道にまい進して行きたいと願う。
当会支部の修行者はサイトの「見取り稽古」を存分に活用して欲しい。
何故なら人間の習慣とは反復稽古によるところが大きく、組手で負ける時は同じ轍(てつ)を踏んでいる場合が多いからだ。
無論、見取り稽古はある程度の域まで技を習得した人間が行うべきで、初期の人間がやると迷いばかりが出てしまう。
初期の人間に自分を振り返るゆとりは無いのが当然だ。
当支部でも茶帯以上の一般部会員は、是非とも試してみて頂きたい。